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About Laos

わたしたちスーンは「ラオス」という国で活動を行っています。東南アジアの内陸国であるラオスは、日本に住む私たちにとって、それほど馴染み深い国ではありません。ラオスは国民一人当たりのGDPが低く、アジアの最貧国の一つであるとも言われています。

 

しかし、ラオスはとっても素敵な国です。豊かな自然に恵まれた穏やかな国である「ラオス」について、みなさんにご紹介していきたいと思います。

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ラオスの文化についてご紹介します♪

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Culture  etc.

スーンメンバーがサークル内勉強会で

使用したパワーポイントを共有します♪

​Economy&History

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​*ラオスの文化、経済については以前のホームページの情報を引継ぎました。情報が古い場合がございます。参考文献をご参照ください。(写真については差し替えを行いました。)

*ダウンロードに当たっての注意点

(1)無断配布・無断転載はお控えください。

(2)無断で報告書の内容を改変、改ざんする等の行為はお控えください

(3)本ファイルにより生じた損害について「スーン」はその責任を負いません。

​ラオス基本情報

​なんでラオスなの?

ラオスは東南アジアに位置する内陸国で、計50民族が暮らす多民族国家です。また、ラオスは社会主義国家であり、一党独裁体制が続いています。

ラオスは、独立、内戦を経て、1975年にラオス人民民主共和国として樹立が宣言されました。国家建設が始まってからまだ45年しか経っておらず、あらゆる面で問題を抱えていますが、特に教育面での問題は深刻です。

現在、ラオスは経済成長を示していますが、未だ特に開発の遅れた国々である後発開発途上国の一つとして数えられています。

 

ラオスでは、ほぼ100%の児童が初等教育に就学する一方で、小学1年生で多くの子供たちが留年、退学しています。

私たちが活動しているチャンパサックでは、初等教育の修了率が80%に届いていません。

原因には、ラオス語を母語としない少数民族の子供たちの言語の問題や、子供たちを労働力とするために、学校に行かせないという家庭の貧困の問題などがあります。

また、ラオスでは、初等教育の授業料や入学金などは無償ですが、通学費・制服代・教科書や文房具代などの費用は個人で必要とされ、貧困家庭にとってはこのような就学費用は負担になってしまいます。

その他にも、教科書の不足、カリキュラムの質の低さ、教員数や指導力の不足、学校数や教室数の不足や校舎の老朽化などの問題が挙げられます。

教育の質は高いとは言えず、学習達成度調査では、8割以上の初等教育3年生が適正な習熟度に達していなかったそうです。

 

私たちスーンは、このような問題にアプローチするために、ラオスのチャンパサックで継続的な支援を届けています。

参考文献:

石黒 馨『ラオスの初等教育問題と日本の国際協力』(アゴラ: 天理大学地域文化研究センター紀要、2016年、13号)

岩品 雅子『第10章 ラオスの基礎教育開発の進展と「学校に基盤を置いた教 育行政」に向けたJICAの取り組み』(鈴木基義編『アセアン経済共同体とラオス』、2018年、JICAラオス事務所)

山田紀彦『アジアの基礎知識5  ラオスの基礎知識』(2018年、めこん)

外務省 後発開発途上国(LDC:Least Developed Country)

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html

外務省 ラオス基礎データ

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/laos/data.html#section1

ラオス概況 2020年6月 国際協力機構(JICA)ラオス事務所

https://www.jica.go.jp/laos/ku57pq00000468zk-att/summary_202006.pdf

なんでラオスなの?
ラオス基本情報

​ラオス基本情報

正式名称:

ラオス人民民主共和国(Lao People's Democratic Republic:Lao P.D.R)

 

首都:

ビエンチャン(Vientiane)

 

位置:

インドシナ半島中央内陸部

北緯14度‐23度 東経100度‐108度

国の東西をベトナムと、タイに挟まれ、

南北はカンボジアと、タイとミャンマーに接している。

メコン川がタイ国境の大部分を構成している。

 

面積:

約24万平方キロメートル

*日本の本州の面積に相当

 

地形:

国土の約80%が森林・高地

北部が山岳地帯、東部が高原地帯となり、メコン川流域に平野部が展開している。

 

気候:

熱帯モンスーン気候(Am)に属し高温高湿:年間降水量1630mm

5月から10月の雨季と11月から4月の乾季が明瞭である。

最も暑い時期には日中気温が40度前後に達する。

 

人口:

推定 649万人(2015年:ラオス統計局)

 

人口密度 26.6人/平方キロメートル

(参考:日本の過疎市町村における人口密度=約52人/平方キロメートル)

経済規模 大阪府の1/40

 

民族:

ラオスは多くの民族により構成される国家で、主にタイ語族のラオ・ルム(低地ラオ族)。

その他は約50の少数民族に分かれる。

 

 言語:

公用語はラオ語。一部では英語・フランス語が通用する。

​宗教・音楽

宗教:

宗教は上座部仏教が60%、アニミズムやその他の宗教が40%です。しばしば仏教とアニミズムが混同して信仰されていることがある。ラオス南部ではキリスト教が信仰されているところもある。

ラオスの人々の生活は生活様式に至るまで仏教に大きく影響を受けている。ラオスの人々は忍耐と受容を教え込まれる。仏教は人々の連帯をもつ唯一のものであり、過去法が整備されなかった時代に、善人であれ、間違ったことに手を染めるなと説かれていた。

ラオスで最も重要なお祭りは1年に1回行われるブン・パウェートです。この祭りは国全体で2日間行われる仏教の祭典です。この祭りは1月もしくは2月に開催される。開催中、僧侶は布施太子本経世の全章にわたる説法が行われる。

 

音楽:

代表的な楽器はケーンで金属のリードが音源で50センチメートルから2メートルに及ぶものもある。真臘のリードが組み込まれた気鳴楽器であり吹いても吸っても音は鳴るようになってる。

ケーンとともに弦楽器ピンやシンバルが使われるよく知られている伝統音楽として「モーラム」がある。哀歓のあるメロディーが特徴で男女の問答歌など恋愛の歌が多く、歌手たちは即興で歌詞をつけて掛け合いをしたりします。かつてラオ族が暮らしていたタイ東北のイサーン地方でも同様の音楽文化が伝わっており、どちらの地域でも庶民の娯楽として親しまれています。

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小学校近くの寺院の写真です。

宗教・音楽

​食文化・伝統衣装

食文化:

ラオス料理は他の東南アジア料理と違ってカオ・ニャオ(もち米)を主食としており、もち米は手で食べられる。最も重要な材料は南姜、レモングラス、バー・デークである。ハーブなど山や川の幸をふんだんに使ったヘルシーな料理が多く、味付けもほかの東南アジアと比べて辛くなくシンプルなのも特徴である。

ラオスの代表的な料理としてラープが挙げられ、ラープとは細かく切った肉、または魚にレモングラス、ライムジュース、ミントなどの香草をたっぷり混ぜて和えたものである。他にもオーラムと呼ばれるスパイシーなハーブと肉を煮込んだものやバナナの葉で食材を巻いて蒸したり炭火で焼くモックなどもある。

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​ラープ

​カオニャオ(もち米)

​バナナの葉で蒸された鶏肉

カオピャクセン(ラオスの麺)

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民族衣装:

代表的な民族衣装はラオ族の「シン」と呼ばれる筒状のスカートです。公務員や学生の制服にも制定されていることもあります。シルクや刺繍で施されて高級品もありますが、プリント柄もあり普段着としても愛用されています。ラオスの手織物はデザイン、色合いが斬新で「織物の宝石」と呼ばれるほどで世界中に多くのファンがいます。

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メンバーが着用しているこちらのスカートがシンです。

パクセの市場でシンが売られている様子です。

食文化・伝統衣装

​気候

気候:

ラオスの気候は一般的に雨季(5~11月)、乾季(12~3月)に分けられる。1年を通じて熱帯モンスーン気候だが、北部の山岳地帯は乾季には気温がぐんと下がる。寒い日には氷点下になることもある。

乾季の最後の2ヶ月間は気温が非常に高くなり酷暑期とされている。年間平均気温は28度で平均降水量は南部ラオスで最も高いです。アンナン山脈では毎年3000mm以上の降水量があります。ヴィエンチャンでの降雨量は約1500-2000mm、北部では1000-1500mmほどです。

 

参考:Wikipedia・地球の歩き方・http://wktktours.com/laos/laos-climate/

気候

​通貨・産業・農業

通貨:

Kip(キープ、キップ)

1USドル=約8000キープ

タイとの経済的なつながりが強いラオスはバーツ経済圏に取り込まれており、国内ではタイバーツが一般的に流通しています。また、ホテル・レストランから一般商店までUSドルでの支払いが可能で、ラオスキープ、タイバーツ、USドルの3つの通貨が利用可能です。ただ、お釣りはほとんどキープでしか返ってきません。北部の中国国境付近では人民元も通用しています。

 

産業:

毎年、7%前後のGDP成長率で発展を続けるラオスですが、経済規模は決して大きくありません。

2009年のデータによると、ラオスのGDP*1は約55億ドル(4500億円)であるとされます。これは鳥取県の1/4程度の経済規模にしかすぎません。

*1GDP=Gross Domestic Product(国内総生産)

 

農業:

ラオス経済を支える主な産業は“農業”で、国民の約80%が農業に従事しています。(農業のGDPに占める割合は約40%)

ラオス農業の中心は稲作で、大地には広大な水田風景が広がっています。大部分が水稲耕作のため、大部分の農かは乾季に野菜等の栽培を行っています。

ラオスは経済規模の小さい貧しい国ではありますが、農業をベースとした生活なので食料は豊富にあります。そのため、国民が飢餓状態に陥ったり、町中に物乞いが増えたりするといった状況はありません。

ラオスの人々の生活は確かに「貧しい」ですが、彼らは「豊か」です。

また、メコン川流域は降雨量に恵まれているので肥沃な土壌が広がっています。そのため葉菜類の栽培も多く、パクセー市郊外のボーラヴェン高原では良質なコーヒー、キャベツ、ジャガイモの産地になっています。ちなみに、ラオスのコーヒーはラオス最大の輸出農作物です。

(ラオス人はコーヒーの苦みが苦手。コンデンスミルクをたっぷり入れて飲むのがラオ・スタイル)

通貨・産業・農業

​鉱工業・観光産業

​ワットプーの頂上からの写真

鉱工業:

コーンパペンの滝

ラオスの鉱工業はというと未だ大きな発展を遂げているわけではありません。ラオスは内陸国であり、海を持たないために工業の発展(誘致)には不利な条件にあります。実は、タイ国境を流れるメコン川は大型船が遡行可能な川幅をもっているのですが、南部のラオス‐カンボジアの国境付近には巨大なコーンパペン(Khone Phapheng)の滝群が川を分断しているので、船が外海へ抜けることはできません。

 この船舶による海上輸送が出来ないという不利な条件のため、原材料・製品の輸送には余計なコストがかかり、他の東南アジア諸国のような“安価な人件費”を生かした工業振興は難しいようです。

ラオスの地下資源は金、鉄、銅、鉛、マグネシウム、マンガン、タングステンなどの鉱床が存在していますが、急峻な山岳地帯と未整備な交通インフラのため、大規模な産業開発は進んでいない状況です。

 

観光産業:

Vat Phou遺跡からの景観

また、1986年のソ連のペレストロイカの影響を受けたラオスでも、チンタナカーン・マイ(新思考政策)と呼ばれる経済改革が行われ、市場経済のシステムが導入されると、それまでほぼ鎖国状態であった共産主義政権が、観光の自由化と開放を行い、観光産業の育成に努めた。

 現在では、ルアンパバーンの町(Luang Phabang)とワット・プー遺跡(Vat Phou)が世界遺産に登録されたことにより、多くの外国人観光客がラオスの地を踏んでいて、外貨獲得の重要な産業となっています。(東洋的な雰囲気を遺したままのルアンパバーンは欧米人に人気らしいです。)

 

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​ワットプー付近の様子(のびのびとしています)

​ワットプーの遺産

鉱工業・観光産業

​日本との関係

貿易:

主要貿易相手国

タイ、ベトナム、中国、豪州、韓国、日本他

主要貿易品目

輸出: 金・鉱物、縫製品、電力、農産物・家畜、木材製品

輸入: ODA*2・FDI*3関連の輸入、燃料、工業製品、

衣料用原料、建設機材など

*2 ODA= Official Development Assistance(政府開発援助)

*3 FDI= Foreign Direct Investment(海外直接投資)

 

ラオスでは北部のナムグム・ダムを始めとして、山地を生かした水力発電が盛んであり、発電した電力は主に隣国タイへと輸出されています。これがラオスの主な外貨収入源となっていて、このためラオスは「東南アジアのバッテリー」と呼ばれることもあります。

ですが、私たちの活動地では、町中が停電になることがよくあります。

 

経済協力:

日本は1955年にラオスと国交を樹立して以来、ラオスとの友好関係を保っています。1975年にラオスが社会主義革命を行ってもなお、日本の経済協力は続けられました。ちなみに、日本のJICAの青年海外協力隊が最初に派遣された地もラオスでした。

・有償資金協力 189.30億円(2009年度15億円)

・無償資金協力 1,233.48億円(2009年度37.56億円)

・技術協力 約500億円(2009年度集計中)

[出展:日本国外務省]

 

 ≪日本による具体的な支援≫

・ ナムグム水力発電計画

・ 「東西経済回廊」

→ 第二メコン国際橋

→ 国道9号線改修

 

切手のデザインになった第二メコン国際橋

「東西経済回廊」とは(ミャンマー)タイからラオスを通り、ベトナム(東シナ海)へと抜ける、道路のことを指します。「東西経済回廊」によってインドシナ半島は東西に結ばれ、経済上、非常に戦略的な物的・人的流れを生むことが可能になりました。この道路整備にあたっては、日本の援助による、第二メコン国際橋の架設工事と国道9号線の改修工事が行われました。

第二メコン国際橋は約80億円の円借款によって2006年に完成したメコン川に架かる道路橋。ラオスのサワンナケート(Savannakhet)とタイのムクダーハン(Mukdahan)とを結び、ラオス国内の国道9号線を経由して、ベトナムへと抜ける。この橋の完成によりインドシナ半島を東西に連結する「東西経済回廊」が完成したことになり、ASEAN諸国の経済発展への寄与が期待されています。

 

―― 架橋工事中の2005年7月22日夕方。橋の上にてクレーン事故が発生し、建設中だった橋の一部が崩落するという大きな事故が発生しました。この事故では日本人技術者3名を含む、9名の方の尊い命が失われてしまいました。

 

「東西経済回廊」の完成となった第二メコン国際橋は彼ら9名の尊い犠牲を乗り越えて、大河メコンに架けられた、まさに東南アジア諸国の希望の橋なのです。

※切手の写真はJICAホームページより引用させていただきました。

 

・ ワッタイ国際空港ターミナル建設

・ ラオス・日本大橋

ラオス第三の都市・パクセーにある「ラオス・日本大橋」はメコン川に架かる唯一の国内橋。日本の協力で2000年に完成し、ラオス南部の経済発展に大きな貢献を果たしている。この「ラオス・日本大橋」はラオスの切手や、紙幣の10000kip札のデザインにもなっています。

​日本との関係

貿易:

主要貿易相手国

タイ、ベトナム、中国、豪州、韓国、日本他

主要貿易品目

輸出: 金・鉱物、縫製品、電力、農産物・家畜、木材製品

輸入: ODA*2・FDI*3関連の輸入、燃料、工業製品、

衣料用原料、建設機材など

*2 ODA= Official Development Assistance(政府開発援助)

*3 FDI= Foreign Direct Investment(海外直接投資)

 

ラオスでは北部のナムグム・ダムを始めとして、山地を生かした水力発電が盛んであり、発電した電力は主に隣国タイへと輸出されています。これがラオスの主な外貨収入源となっていて、このためラオスは「東南アジアのバッテリー」と呼ばれることもあります。

ですが、私たちの活動地では、町中が停電になることがよくあります。

 

経済協力:

日本は1955年にラオスと国交を樹立して以来、ラオスとの友好関係を保っています。1975年にラオスが社会主義革命を行ってもなお、日本の経済協力は続けられました。ちなみに、日本のJICAの青年海外協力隊が最初に派遣された地もラオスでした。

・有償資金協力 189.30億円(2009年度15億円)

・無償資金協力 1,233.48億円(2009年度37.56億円)

・技術協力 約500億円(2009年度集計中)

[出展:日本国外務省]

 

 ≪日本による具体的な支援≫

・ ナムグム水力発電計画

・ 「東西経済回廊」

→ 第二メコン国際橋

→ 国道9号線改修

 

切手のデザインになった第二メコン国際橋

「東西経済回廊」とは(ミャンマー)タイからラオスを通り、ベトナム(東シナ海)へと抜ける、道路のことを指します。「東西経済回廊」によってインドシナ半島は東西に結ばれ、経済上、非常に戦略的な物的・人的流れを生むことが可能になりました。この道路整備にあたっては、日本の援助による、第二メコン国際橋の架設工事と国道9号線の改修工事が行われました。

第二メコン国際橋は約80億円の円借款によって2006年に完成したメコン川に架かる道路橋。ラオスのサワンナケート(Savannakhet)とタイのムクダーハン(Mukdahan)とを結び、ラオス国内の国道9号線を経由して、ベトナムへと抜ける。この橋の完成によりインドシナ半島を東西に連結する「東西経済回廊」が完成したことになり、ASEAN諸国の経済発展への寄与が期待されています。

 

―― 架橋工事中の2005年7月22日夕方。橋の上にてクレーン事故が発生し、建設中だった橋の一部が崩落するという大きな事故が発生しました。この事故では日本人技術者3名を含む、9名の方の尊い命が失われてしまいました。

 

「東西経済回廊」の完成となった第二メコン国際橋は彼ら9名の尊い犠牲を乗り越えて、大河メコンに架けられた、まさに東南アジア諸国の希望の橋なのです。

※切手の写真はJICAホームページより引用させていただきました。

 

・ ワッタイ国際空港ターミナル建設

・ ラオス・日本大橋

ラオス第三の都市・パクセーにある「ラオス・日本大橋」はメコン川に架かる唯一の国内橋。日本の協力で2000年に完成し、ラオス南部の経済発展に大きな貢献を果たしている。この「ラオス・日本大橋」はラオスの切手や、紙幣の10000kip札のデザインにもなっています。

​歴史①統一王朝成立

<統一王朝成立前>  

1353年にラーオ族による統一国家ラーンサーン王国が出現するが、それ以前から民族としての活動は盛んであった。ラーオ族の発祥はアルタイ山脈の麓あたりと言われており、そこから年代を経ていくにつれて南下していったとされている。紀元前5000年頃には黄河・揚子江あたりにいてゴビ砂漠に興った漢民族に押し出される形で現在の四川省近辺に都市国家(ムアン)を作った。(西安にムアン・ルン、重慶にムアン・バー、長沙にムアン・ギャオ)

これらの都市国家は中国と長い間抗争を繰り返し滅ぼされてしまった。その後数世紀の間ラーオ族に関する記録は見つかっておらず、7世紀頃に6つのムアンが雲南省の大理盆地に建国されている。これらのムアンを六詔と称する。この中の最大のムアンの支配層のムアン・スイは後に六詔を統一して729年に南詔を建国した。しかしその後、902年にクーデターにより滅亡してしまった。これを機にラーオ族の大移動が始まり、インドシナ半島、ビルマ、アッサムなどでムアンを形成した。

各地で独自の発展を遂げ、タイ北東のチェーンセンのグループは後にチェンマイ王国、スコータイ王国を建国した今日のタイ王国を形成していったタイ族の父祖グループで、メコン川上流のスワーのグループはムアン・スワー、ラーンサーン王国を建国した今日のラオス人民民主共和国の父祖グループと位置づけられるなど、民族の分化がこの頃より始まった。

 

<統一王朝の成立とその発展>

1353年にファー・グム王によって建てられ、支配領域はメコン川流域からコーラート台地までで広げた。16世紀後半にビルマの侵攻を受け、首都をヴィエンチャンに移したが、最終的にはビルマに占領された。その後、王朝は17世紀初頭にビルマの支配を克服し、スリニャ・ウォンサー王の時代には上座部仏教を始めとする文化・文芸の隆盛期を迎えた。

18世紀初頭になると、王朝は王位継承を巡って内紛状態となり、王位継承者が統治するルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国、チャンパーサック王国の三国、及びシエンクアーン王国の4つに分裂した。これらの諸王朝は対立・抗争を繰り返しながら徐々に弱体化し、1779年に三国がシャムの宗主下に入ることでラーンサーン王家の独立は終焉した。

 シャム領下に入ったが、王朝が変わったり、政権が変わったりしてあまり三国に関われなくなったので、三国に大幅な自治権を認めた。

 

 

​歴史②フランス植民地時代

<フランス植民地時代>

19世紀後半になると、ヨーロッパ列強がアジア各地を支配していった。1885年、清仏戦争の結果清はベトナムに対する宗主権を失う。フランスはすでに1863年にはカンボジアを保護国化しており、植民地化の標的をラオスに定めた。1905年には保護国化を完了し、フランス領インドシナを完成させた。

 

1940年11月にタイとフランスの間で仏印国境戦争がおこり、タイは対仏宣伝の一環として対ラオス工作を開始した。ラジオ放送や宣伝ビラなどを通して「ラーオ人もタイ人も元々は同じタイ系民族である」という民族同胞性を強調することによって、抑圧者フランスとの共闘を訴えた。これに対抗してフランスがとった政策はラオス刷新政策であり、教育制度を充実して小学校を各地に新設した。「勤勉・家族・祖国」をスローガンに「母なる祖国・フランス」への奉仕が説かれた。この頃ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国民を構想するものが現れてきた。

 

第二次世界大戦中、日本占領下の1946年にラーオ人の民族主義者によってフランスからの独立が宣言された。日本の敗戦後、ラオスの独立宣言を撤回し、独立派はラオ・イサラ(自由ラオス)を結成し、臨時政府を樹立した。しかし、1946年4月には再びフランス軍がラオスを制圧し、第一次インドシナ戦争が起きた。ラオ・イサラはタイに亡命政府を樹立した。

 

 

日本との関係
歴史①
歴史2

歴史③独立〜現在

<ラオスの独立>

1949年7月19日フランス・ラオス協定で名目上ラオス王国は独立したが、フランス連合内のみに限られ、外交・国防の決定権はフランスが握っていた。一方、ラオ・イサラ亡命政権は親仏派とベトミン共闘派に分裂した。右派はフランス支配下のラオス王国政府に参加し、親フランスのピブン政権を発足させた。一方、左派のスパーヌウォン王子らは1950年8月、パテート・ラーオ政府を樹立し、抗仏闘争を宣言した。1951年にはカンボジア、ベトナムのホー・チ・ミン一派の抗仏組織らと「インドシナ合同民族統一戦線」を結成、対仏ゲリラ闘争を開始した。ベトナムおよびラオスのこうした状況から、フランスは植民地支配の終結を判断。1953年10月22日にラオス王国は完全独立した。

 

 <ラオス内戦・ベトナム戦争からラオス人民共和国成立へ>

ラオスは世界大戦後にスワンナ・プーマ殿下らの中立派、チャンパーサック王家のブン・ウム殿下らの右派、スパーヌウォン殿下およびのちのカイソーン首相らの左派に分かれていた。連合政府を建てようと何度か試みた後に、最終的にヴィエンチャンで「三派連合政府」が成立した。1960年12月にはベトナム戦争がはじまり、ラオスは通り道となるので隠れた交戦場となり、大きく被害を受けた。

ベトナム戦争は北ベトナムの勝利で終結し、1975年12月2日ルアンババーンで開催された全国人民代表会議において、スパーヌウォン最高人民議会議長兼大統領を頭に置くラオス人民民主共和国が成立した。

 

ラオス王国からラオス人民民主共和国への移行はさして衝突もなく行われたことから「静かなる革命」と呼ばれる。しかし実際は成立後2,3年経済や行政は混乱状態に陥り、麻痺していた。そこで政府は1976年からヴィエンチャンとルアンババーンに国営商店を開設、物資の退蔵、価格操作の禁止の法案、配給制度を実施した。同年6月15日には通貨改革を行い、少しずつではあるが経済状況は改善されていった。1977年にはベトナムとの間に「ラオス・ベトナム友好協力条約」が締結され、ベトナムより国家建設に必要な資金援助や文化・教育・技術などに関する専門家派遣が受けられる体制が整えられた。同時にソビエト連邦や中国との関係強化にも着手し、両国間の全面協力体制樹立に向けての共同声明を発表するなどの成果を挙げている。

 

1979年からはさらなる経済活性化を求め、「新経済政策」が閣議決定され、自由主義経済原理を導入し、インフレーションの抑制を行った。新経済政策の効果は覿面で、1980年にはラオスの米の生産量が初めて100万トンを突破した。

 

1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生し、1984年にはラオスのサイニャブリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の三つの村をタイ国軍が不法に占拠していると発表し、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイ政府は同年10月14日国軍が撤兵した旨の声明を発表し、騒動はいったん沈静化したが、本件は1988年に両国代表団による和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた。

 

 1991年に大統領の権限を拡大する憲法が制定され、カイソンが大統領となった。その翌年カイソンが死去すると、プームサワンが新大統領に就任した。プームサワンと、ラオス人民革命党書記長のシパンドンの新体制は、カイソン政策の継承を表明した。 1996年の人民革命党の全国大会で、党人事の大幅な変更が行われ、経済開放政策の行き過ぎに対する抑制が、図られた。また、1997年から、ラオスのASEAN正式加盟が承認され、ミャンマーとともに正式に加盟した。ついで、1998年にはASEAN自由貿易地域(AFTA)に参加し、2008年までに、関税の引き下げを実施することにもなりました。現在の大統領はトーンシン・タムマヴォンである。

 

歴史3
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